続・悪の原体験
二年と一ヶ月ほど前のお話。
上の息子・三年生の個人懇談だった。
担任はベテランで教務主任を兼ねていた。
奥-chanは言った。
「子どもには恵まれた自然の中でのんびりノビノビ育って欲しい」
ついでに
悪の原体験で書いた蟻んこの話をした。
(悪の原体験を見て下さい)
奥-chanは言った。
「できればそんなふうに(原体験を通して)成長していって欲しい」
ベテラン担任は何も言わなかった。
その後は違う話になった。
他愛も無い話だったように思う。
たいして覚えていない。
「それでは今後とも宜しく」
ベテラン教師が立ち上がって頭を下げた。
「いえ、こちらこそ」
奥-chanも席を立って頭を下げた。
左手にプリントや手提げ袋を抱えていた。
右手だけでぎこちなく椅子を机に戻していた時、その声が聞こえた。
「お母さん、先に教えといてやったら、沢山の蟻んこ、死なんで良かったやないですか」
奥-chanは声の方を見た。
そこには半笑いのベテラン教師の顔があった。
あの時は答えられなかった。
そのまま帰った。
違和感だけが残った。
あれからずぅっーと考えていた。
違和感は心の奥で燻り続けた。
そうやって子ども達を見つめて暮らした。
Eiji-chanがチャント育てている子ども達は常に答えに導いてくれる。
で
近頃、確信を持った。
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凡人の話では説得力に欠けるので賢者の知恵を拝借。
「ピタゴラスの定理を覚えたからといって、自分の理性を自由に行使することができるようになったわけではありません。
この定理があることを自分で発見し、その証明を自分で見出したときに、はじめて、自己の理性を自由に行使することができようになるのです。
知的教育の目的とするところは、出来合いの真理を記憶したり繰り返しできるようになることではありません。
それというのも、模倣して繰り返された真理は、半真理でしかないからです。
現実的・実践的行動を行なえば、いろいろ廻り道をすることを余儀なくされ、時間を失うこともありましょう。
知的教育の目的は、それを覚悟のうえで、真なるものを自分の力で獲得することを学ぶところにあるのです」
(「かがやけ子どもの権利」牧柾名著新日本新書1991年の中に「ワロン・ピアジェの教育論」明治図書1963年を参考したと書いてあった)
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賢者の知恵では難しいので凡人の話に戻そう。
夕方息子達が「早く早く,来て来て」とキッチンの奥-chanを呼びに来た。
何事かとついて出たら空が真っ赤に染まっていた。
「夕焼け!」
息子と並んで道に座り込んだ。
太陽が消えるまで誰も何も言わなかった。
Eiji-chanが言う。
「教科書に載っている赤を教室の机の上で赤だと教えられたところで感動しないだろう」
でも
「子ども達が教えてくれた夕焼けの赤には感動しただろう」
つまり
実感が伴わないと心が動かない。
心が動かないと幸せになれない。
幸せになれない=つまんな〜い=笑えない=不健康=etc.etc.・・・
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※実感とは?
@(想像・空想に対して)実物に接して起る感じ。
A実際に経験しているかのように生き生きと感ずること。(広辞苑・岩波書店)
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実感が伴わないと・・・
例・添加物食品は発ガン性があって怖い。
とは知っていても「まぁ、いいかぁ」と子どもに食べさせてしまう。
で
ガンになってみないと分らないから、いつまでも食べさせる。
例・ゲーム脳は前頭葉が働かないから切れやすい子ができて怖い。
とは知っていても「一時間ぐらいなら」と買って与える。
で
切れてみないと分らないから、いつまでも取り上げることはしない。
「お母さん、先に教えといてやったら、沢山の蟻んこ、死なんで良かったやないですか」
は
実感が伴わない。
確信を得るのに二年一ヶ月も経っちまった。
あぁ、鈍くさい。
メチャ情けない。
でも
今なら言える。
笑わしおんなぁ
アンタそれでも教師かい
と。
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