その悲しみが救えない 序 章 相棒 「そこに腕を突っ込んだらどうなるかな?」 と相棒はさも愉快そうに言った。 龍一は大げさに眉を釣り上げた。 見下ろす脱水層の中で反物が渦巻いていた。 「腕ちぎれるかな、ハハッ、おいらごとグルグル回っちゃったりしてな」 相棒が水のぼたぼたとしたたるずっしりと重たい竹篭を足元のすのこの上にドサリと下ろした。 踏み固められたつち土間に巨大なしみが広がっていく。 相棒は直径がゆうに60センチはある円筒形の開放された上部を、龍一の肩ごしに覗き込んだ。 とぐろを巻く大蛇のごとく、染め上がった友禅が不可思議な色彩を織りなしていた。 相棒が空の竹篭のある向こう側へ回ったので、龍一と相棒は円筒形の脱水層を挟んで向き合う形になった。 「ここに腕を突っ込んだらどうなるかな?」相棒は腰に手をあてた仁王立ちの姿勢で、一心に回転を見詰めている。 「ハハッ、おいらの腕がグルグル回ったりするな」 「当たり前だ!」 龍一は熱さを伴わない単調で強靭な回転を見下ろした。 「見ろ、吸い込まれそうだ。だからって俺達の腕をくれてやることはないんだ」 「おいらは…、なぁ、リュウ」 と相棒の顔色が蒼白になって、すがるように龍一をじっと見つめた。 「おいらは…」 「船とはとっくにおさらばしたんだ」 龍一は相棒の両肩をつかんで、その体をちょっと揺すった。 「船底の話はうんざりだ。戦争は終わったんだ!」 「そうだよな」 と相棒はうな垂れた。 「俺達の戦争は負けた…」 「けどよぉー」 と相棒の声が一段高くなった。 「あいつの、奴の腕を機械がもぎ取ったんだ、機械が奴を腕ごと持っていきやがった」 脱水層を覗き込んだ龍一は目眩を覚えて悲しげに肩をすくめた。 龍一は脱水層を覗き込む度に襲われる軽い目眩を相棒に気取れらないように、うな垂れて足元のしみを見た。 そこには華奢でなで肩の龍一と大柄で腹の突き出た相棒の影が映っている、いつもの錯覚があった。 それは敗戦で舞鶴港に降り立った二人の姿を、雨上がりの水溜りが戦友の記念写真を映しだしていた記憶に重なっていく。 相棒は仁王立ち、龍一はうな垂れていた。あの時相棒の腹は出ていなかったが、龍一の体型はあの頃と少しも変わらない。 午後の二時半だった。奥でそれぞれの女房が型を載せた布地に染料を刷り込む作業に追われていた。 型友禅と呼ばれる技法で小紋が染め上がっていく。 「駅前でさぁ」 と龍一の女房が言った。 「キリスト言う神さんのチラシ配ってたの、絵がウチの亭主そっくり」 「それそれっ、子供が貰って帰ってきたよ、リュウおじさんに似てるって」 と相棒の女房がクスクス笑った。 「やだぁー、見たの」 「見た見た、やせっぽちでうな垂れてるやつ。あらッ、ごめん」 と相棒の女房は声のトーンを落としてヒソヒソと言った。 「いいのいいの、その通りだから」 相棒が奥へ向かって大声で言った。 「無駄口叩いてないでサッサと仕上げちまわないと。じきに三時だぞ」 龍一は顔を上げて相棒をじっと見た。 「ったく、女ってやつはぁ」 と相棒は卑屈なほどニコニコと龍一に笑いかけて、脱水層と奥との中間辺りに位置する水洗いの洗濯槽へ戻った。 「いいよ、気にしてないから」 と龍一がボソッと不満げに言った。 「そんなふうに言うと却って庇われたみたいで変だろ。だいたい32の所帯持ちが見かけなんかどっちだっていいんだ」 龍一の声が洗濯機の音に負けじと
大きく響いた。 「庇っちゃないさ」 と相棒は叱られた子供がボソボソと言い訳するみたいに言った。 女達が二人のやり取りに遠慮する気配でコソコソと仕事に戻る。 龍一は脱水の終わった長い反物をズルズルと空の竹篭に取り出しながら相棒を見た。 地布の精練や染め上がりの水洗いなどの力仕事はもっぱら夫達が受け持っていた。 「じき三時だろう、ちょっぴり煙草が飲みたいだけさ」 と相棒の口調が先刻と同じ拗ねた色を漂わせた。 「厄介だな、お前は」 と龍一はごく自然に笑った。 「4人だけの家内工業だろ、煙草ぐらい好きなときに吸えよ」 「なぁ、リュウ」 と相棒は龍一の取り出す反物の柄を見ていた。 「食料係のリュウには分かんないんだよぉ。船底でこっちが機械動かしてんのか機械がおいらを動かしてんのか、汗と油で。 その後の一服、煙草の一番旨いところだ」 龍一は何も言わなかった。
手馴れた指先がパンパンとリズミカルに反物の形を整えていき、その音は女達が染め上げた布を水洗いする相棒の働く洗濯層のところまで快く響いた。
相棒はがっちりとした180を越す大男で、ゴム長の前掛けが貧弱に見える。 打たれ強さと大木のような体躯が却って愚鈍な印象を与えるのか、戦時中の限られた船内という戦場でストレスを溜めがちな上等兵達のいじめの対象になっていた。
相棒は奴隷のような船底仕事の合間に小突かれ、せせら笑われ、事あるごとに殴られていた。 龍一は毎日決まって三時頃、点検のための食料貯蔵庫に行くついでに、 上等兵の監視を逃れて配給をかすめた煙草を一本ポケットに忍ばせて相棒の働く船底を訪れた。 機械から離れて龍一とは斜交いの位置に腰掛ける習慣のある相棒は、そのたび旨そうに煙草を吸った。 別に同情した訳じゃなかった。 身長が160 cmに足りない龍一が海軍という船内を生き延びるのに『大男の相棒』という安心感が必要だったに過ぎない。 配給をかすめて溜め込んだ酒や煙草にしても龍一にとっては戦争という荒波を無事に乗り切るための手段でしかなかった。 上等兵ですら酒煙草欲しさに龍一にはとりわけ親切に接してきたし、現に戦時中龍一は酒や煙草を口にしたことは無かった。
「本当のところ、庇われてたのはおいらだ。ホントだよぉ、いっつも」 「庇ってなんかないよ」 と龍一はおもむろに言った。 龍一は巨大なしみの上に置き去りにされた竹篭から水をふくんだ長く重たい反物を脱水層へ移していく。 「リュウには知恵があるんだ」 と相棒は水洗いの槽に顔を向けたまま言った。 「おいらはマヌケだから] 龍一は笑い出した。友情を意識したきわめて意識的な笑いだった。 「つまらない冗談だぞ。お前は馬鹿な男じゃない」 相棒は顔を上げて龍一を見た。洗濯機が停止した。 「いい嫁もいる」 と龍一は奥を見た。 「働き者の女だ」 「言っておかないといけないことがあるんだ」 と相棒は龍一の目をじっと見た。 「おいらにはリュウが必要なんだ、女房じゃない」 相棒は水槽から反物を引き上げながら、口笛で軍歌を吹き始めた。 水を含んだ長く重たい反物が口笛に操られて竹篭に収まっていく。 龍一は泣きたいような腹立たしさを感じて、今までにも何度か二人が相棒であることを後悔してきたことを思い出した。 「口笛はやめろよ」 龍一はつとめて穏やかに言った。 「何度も話し合ってきただろう」 口笛がやんでも、龍一の苛立ちは消えなかった。 「お前が結婚して何年にもなるぞ」 と龍一は子供を諭すように大きく頷いて相棒を見上げ、諭す側の自分が見下ろされていることに自己嫌悪をおぼえた。 「いいか、相棒、戦争は終わったんだ。訳もなくお前を殴る上官はもういないよ。それどころかお前にはりっぱな家庭がある。俺だって女房も子供がいるし、お互い優先順位を変えなくちゃいけない。 お前は家族同然だけど家族じゃない。ガキの教科書をみてみろって。『さいたさいたサクラがさいた』ってな、ハハッ、平和教育だぞ」 「でも、おいらにはリュウが必要なんだぁ…」 「プロテスタント?」 と奥で相棒の女房の声がした。 「なんでも罪を犯したプロテスタントの人間は死んだら地獄におちるんだって」 「はっきり言っとくぞ」 と龍一は冷静に相棒に言った。 「俺達は商売の仲間だ」 相棒はまた口笛を吹いた。 相棒は重たい竹篭を持って龍一の所へやってくると、すのこの上に下ろした。 「もしも俺が…」 と龍一は陰鬱に言った。 「俺がもしお前と別の仕事を始めると言ったら?」 「『死んじまう』と言うさ。あぁ、リュウ、間違いないよ」 龍一は情けなそうに頬をこすって、奥の女達を悲しげに見た。 女房達は黙って、龍一を冷たく見返した。 「なんだってんだ」 と龍一は腹立たしげに言った。 「別に俺が居なくたっていいじゃないか? 俺がお前の面倒を見てるわけじゃないだろう。お前の方が俺より年上だろ」 龍一がすのこの竹篭から反物を脱水層にズルズルと移し始めた。 「ここに腕を突っ込んだらどうなるかな?」 と相棒はおどけた物言いで脱水層を見下ろした。 「馬鹿野郎!」 と龍一は怒鳴った。 「強情な馬鹿野郎だ! 何回話せば気が済むんだ! 俺の嫌がる顔が見たいんだろう。チビの俺が兄貴面してるから。お互い戦友なんだから、腹割って聞こうじゃないか」 「怒らないでくれよぉ、リュウ」 と相棒は半泣きの呈で言った。 「おいらはただ思い出しちまうだけなんだ。いつもはちゃんと忘れてる。本当だよ、リュウ。おいらは此処で何年働いてる?」 「お前と過去のお勉強なんかする気はない」 と龍一は足元のしみを長靴の爪先で踏みにじった。 「だいたい俺達に語り合いたい過去があるか。思い出なんて役立たずじゃないか」 「教えてくれよ、おいらは何年働いてるんだ」 「五年だ。あぁ、五年だよ」 「三回目だ、五年で三回しか話してない」 と相棒は辛らつにきっぱりと言った。 「ちゃんと数えてたんだ。間違いない。何故だと思う?」 「偶然だろ」 龍一はうんざりして、天井を仰いだ。 「自分の歳もろくに覚えちゃいないお前が。知るか、そんなこと。知るもんか」 「怒るなよ、リュウ。ちゃんと話すよ、ちゃんと話すから」 と相棒は先ほどの口調の延長で妙に落ち着いて言った。 「奴とおいらはずっと一緒にだったんだ。奴もおいらも図体がでかいばっかりに、奴隷のように働かされた。機械の音がうるさくてろくに話をしたこともない。でもずっと一緒だったんだ。わかんないよな、リュウには」 「分かるさ、俺だって行ってたんだぞ。よく知ってるさ」 「リュウ?」 と相棒は心外だったようにポカンと言った。 「リュウは船底も機械も知らないだろう?」 龍一は話の矛先を変えようと二人の過去を探って眉間に皺を寄せた。 何とか共通の過去の出来事を見つけるとその眉は嬉しそうに釣りあがった。 龍一はできるだけ優しい口調で相棒に話しかけた.。 「俺達、二人とも、海軍で働いてたろ、思い出せよ、二人とも青春だったよな。戦争だったけど、でも青春だったには違いない」 「死んだら天国に行くんだって」 と相棒の女房が勝ち誇ったように言った。 「バプテストは金のべべ着て、天国で暮らすんだって」 相棒はしばらく仕事をするのも忘れて龍一の目を見ていた。 ふっと諦めたような微かな笑いがその口元に浮かんだ。 「海軍でのリュウの仕事をおいらがどう思ってるか言ってもいいのか、リュウ?」 と相棒は妙に冷ややかに言った。 「俺は最低の軍人だった」 と龍一は先を見越して言い放った。 「船一番の怠け者だ」 相棒はこっくりと頷いた。 「最低の軍人で、最高の仕事」 「言葉に気をつけろ、俺を怒らすなよ」 「ごまかせる配給品はなんでも」 と相棒は幸せを夢想するように龍一を無視して言った。 「下っ端の兵隊の酒も煙草も、上官の喜ぶものらなんでもいい、掠め取って溜め込んでたんだ。それをえさにー」 「本気で俺を怒らす気なのか」 と龍一は巨体の相棒に向き合って睨みつけた。 「おいらは?」 と相棒は間の抜けた言い方で聞いた。 「なぁ、リュウ、おいらはどんな軍人だった?」 「知らないよ」 龍一はうんざりして、仕事に戻ろうと相棒から視線を外した。 「知るか、お前のことなんか。知るもんか」 「怒らないでくれよ、リュウ。おいらは? おいらも最低の軍人かぁ?」 「ああ、ああ、お前は最高の軍人だったよ」 と龍一は吐き捨てるように言った。 「船一番の働き者だからな」 「最高の軍人で、最低の仕事」 と相棒はもう龍一を見ていなかった。 「上官に殴られない方法があるのか?」 と相棒は自身を説得するかのように問いかけた。 「何もしない。酒と煙草を横流しする。ただそれだけ。みんな戦争でくたくたなのに、一本の煙草すら取り上げられた。リュウは上官に殴られたりしない。おいら達は、おいらと奴は奴隷のように働いて…」 「俺は食料係だったんだぞ」 と龍一は声を張り上げた。 「お前にとやかく言われる筋合いなんかない」 「おいらは、おいら達は船底で働いてた。煙草一本で尻尾を振る犬じゃない、けど犬じゃ駄目だったのか…? 奴は機械に腕をもぎ取らせたんだ。奴にはリュウがいなかったから。リュウのくれる三時の煙草もなかったから。 腕のなくなった奴をもう上官は殴れない…」 「お前とは終わりだ」 と龍一は自分には長すぎるゴム長の前掛けを外し始めた。 「お前は俺と一緒じゃなくても十分やっていける」 龍一は前掛けを丸めて床に叩きつけた。 前掛けの紐が床の水溜りを叩きつけて、ぴしゃりと冷酷な音を立てた。 相棒はビクリとして我に返り、泣きそうになった。 「悪かったよ。謝るよ、リュウ、おいらが悪かったよぉ」 女特有の絶え間ない朗らかな会話はいつの間にかヒソヒソ話に変わっていたが、しばらくはそのヒソヒソ話すら聞こえなかった。 そして相棒の女房が息を詰める気配が張り詰めた空気に耳障りな印象を与えたので、女達はひたすら熱心に刷毛を動かし始めた。 「おいらにはリュウが必要なんだ…」 と相棒は龍一の前掛けをさも大事そうに拾い上げた。 相棒は大きな分厚い手のひらで濡れた紐の汚れを何度もこすった。 「死んじまう…」 と相棒は口の中でもごもご言った。 龍一は大男の嘆きの全体像を無視できるように相棒の手元に視線を集中した。 それでも相棒への怒りを継続させるには非常な努力が必要なのを龍一は経験上いやと言うほど知っていた。 龍一は大きな力なく丸まった背中に自分の苛立ちをつのらせることに神経を集中した。 「どうするつもりだ」 と龍一はとげのある声で言った。 「俺をこんなに怒らして、なぁ、相棒」 龍一はまたしても相棒などと呼びかけた自分を後悔した。 その声が相棒の耳に甘く聞こえたであろうことにも嫌気がさしたけれど、すがるように振り返った相棒の目をこれ以上無視できないことも既に龍一は悟っていた。 相棒は手の中で前掛けの紐をもてあそびながら、龍一の顔色を伺って言った。 「おいらが悪かったんだ。間がさしたんだ、本当だよ」 龍一は反物を移し終えてからになった竹篭を黙ったまま相棒の手に押し付けた。 「死んじまう、おいらが悪かったんだ」 と相棒は受け取った竹篭を大事そうに抱えて所定の位置にそれを置いた。 それから向こう側に回ると脱水層を見下ろしながら聞こえよがしに大きく溜め息をついた。 「俺がどう思ってるか聞きたいんだろう」 と龍一は柔らかな自分の声につくづく嫌気がさした。 相棒は頬をひくつかせて懇願するように龍一を見つめた。 「もう怒っちゃいない。お前は俺の相棒だ」 龍一は吐き出すように大きな溜め息をついた。 相棒はゴム長の前掛けをすごすごと龍一に差し出した。 龍一は黙って受け取ると、わざとゆっくり時間をかけてそれと腰に丁寧に巻きつけた。 「俺には俺なりの戦争があったんだ」 龍一は足元のしみに目を落として、そこに映るチビの自分と大きな相棒が並んでいる幻想を見つめた。 「誰かと語り合うような青春はなかったけど、きっと子供達に話してやったりしないからこれから先も多分一生黙ってなきぁならないだろうけど…」 と龍一は脱水層のスイッチに手をかけてまま押すことを躊躇って、相棒に語りかけるように言った。 「今やっと分かったような気がする。どうして俺がお前についイライラしてしまうのかが」 「おいらにイライラする? リュウはイライラするんだ、おいらに」 と相棒は変に納得したかのように繰り返した。 「どうしてなのか分かったのか?」 龍一はスイッチから手を離して脱水層に両手をかけると、そこに体を預ける形をとったので自然と脱水層の中の友禅の柄が目に入ってきた。 小さな柄は幾何学的に並んでいるようであるのに左右対称をなしておらず、ある一定の法則に従ってアンバランスに配置されていた。 いつもはそこに日本人の粋を見出して関心していたものが、今は神経に障って意味もない不安が心に床のしみのように広がっていく。 龍一は止めることができずにごくりとつばを呑み込んだ。 「誰とも語りたくないんだよ。沈黙していたいんだ、そのほうが楽だからな。お前は俺が楽に生きようとすると責めるけど、仕方ないんだよ。明日死ぬかも分からない戦場が青春だったんだぞ、かといって前線とは違う。海軍ってのは厄介だよな、 自分の敵が何処にいるのか見えないんだから。結局敵は常に船内にいたろ? 同じ日本の兵隊なのに、上とか下とか大きいとか小さいとか力があるとか弱いとか、いたるところに敵まみれだ。俺達はいったい誰と戦ってたんだろう、夢も希望も持ってかれて。 「『お国のため』なんて嘘は真っ平だぞ。お前は俺を配給品のことで責めるけど、お前も俺も結局生き延びるだけで精一杯で、良いとか悪いとか言ってられなかったじゃないか。現実を生きるってのは罪深いことなんだって叩き込まれたようなもんなんだぞ。 子供達に語って聞かせたりできるか? 昔お前の親父は上等兵に殴られたくないばっかりにみんなの配給掠めてましたなんて言えないだろう。黙ってるしかないだろう。できれば水に流したいけど記憶が勝手に繰り返しやがる、ふとした時にな。 ふと夜目が覚めて、ふと仕事の合間に腰伸ばして、ふとお前が煙草飲んでたりするとな。 「だからかな、黙って働いて子供達さえ一人前にできたらそれで善しとしよう、それしか思いつかないんだ。折角はじめた商売だからもっと儲けなくちゃいけないんだけど、あの頃みたいに欲深くなれないんだ。ただ子供達さえ無事大人になってくれたらそれで善しとしよう、それしか思いつかない」 と龍一は反物の一端を手にとって目の前にかざすとその柄を丹念に見た。 「繰り返したくないんだ、俺達の青春を。記憶を遠ざけておきたいんだ。なぁ、相棒、お前は思い出すだろう、お前が話すたびに俺は思いださなきぁならなくなる。 「お前は嫌な奴だな」 龍一は小紋を点検するように仔細に眺め回した。 「わかったよ」 と相棒は苦しそうに言った。 「もう戦争の話はしない」 龍一はさも不思議そうに首を傾げて小紋柄を凝視した。 「どうしてこんなに嫌いになったんだろう。洒落たいい柄だとずっと思ってたのに」 龍一は反物を脱水層の中に投げ出すようにして戻した。 「この柄はやめよう、もっと別の型紙を手に入れないと」 龍一は脱水層のスイッチに手を掛けて、言い忘れたことを思い出したように相棒を見上げた。 「一つだけ」 と龍一の口元が緊張して微かな痙攣を伴った。 「一つだけ言い忘れたことがある」 「ああ」 「配給を掠め取れた奴らがもし俺を袋叩きにしようと迫ってきたら、その時は大男のお前を盾にして逃げる腹づもりだった」 「わかってるよ」 と相棒はにっこりと笑った。 「だから二度と俺には話しかけるな」 と龍一はスイッチを押した。 脱水層の中で小紋柄がとけて鈍く細い幾筋もの縞模様を描き始める。
「ここに腕を突っ込んだらどうなるかな?」 と相棒は嬉しそうに言った。 龍一は相棒を無視して空の竹篭を無言で引き寄せた。 「天国は永遠の命がもらえるんだって」 と相棒の女房の声が奥から聞こえた。 朗らかで大きな声だった。 「天国では年とらないんだわ」 近くの工場で三時のサイレンが鳴りわたった。
龍一が女達に声をかけるために奥へ顔を向けたのと、相棒が脱水層に吸い込まれるようにして自分の腕を突っ込んだのがほぼ同時だった。獣のような叫びがサイレンに重なった。 |