48歳の章



 土曜日の朝に、その家族の乗ったワゴン車は田舎町を出るための始めての信号である役場横の交差点にひっかかった。

 配達の道順を地図で確認していた助手席の妻から、

「あらっ?」

と小さな驚きの声が聞こえた。

「んっ?」

と途切れがちな車の流れをぼんやり眺めていた運転席の夫が、和やかな響きのこもった相槌で彼女を振り返った。

 妻の妙子は夫とは反対の方向、隣の車線で信号待ちをしているトラックを見ていた。

「直次さんの手…」

と妙子の視線の先にはハンドルを握る真新しい包帯があった。

 トラックのボディーには「南製材」の文字がある。

 三年余りの田舎暮らしで得た友人が乗っていた。

 直次の孫が長男の同級生でもあるので年齢にこだわらないつき合いだった。

 直次は左手の中指と薬指を清潔な包帯でがんじがらめにされていた。

 夫の敏男が軽くクラクションを鳴らした。

 気付いた直次が「よおっ」と右手を上げてニッコリと笑った。

「それそれっ?」

と敏男が包帯を指差す。

 直次は両手で材木を電気カンナに通す動作をしてから二本の指を斜めに切り落とす真似をして痛そうに苦笑した。

「プレイナーか、怖いな」

と敏夫が独り言のように呟いた。

「大丈夫なの!?」

と妙子が身震いし思わず力んだ声を出した。

 それまでワゴン車の中を支配していたのんびりとして空気には不釣り合いに突拍子もなく大きな声だった。

「何が?」

と後部座席から二人の男の子が身を乗り出して来た。

「どしたの?」

「なになに?」
と口々に聞いてくる。

 5歳と11歳の子供達は地獄耳で大人の話にいちいち首を突っ込んできては親を辟易させるが、夫婦は遅がけに授かった子供達を溺愛しており子供達
がそのことで叱られることは無かった。

「ほらっ、慎吾ちゃんのお祖父ちゃんの手」

と妙子が指さして教えると、二人は小さな顔をぶつけるように並べて窓越しの直次を見た。

 直次が子供達相手に清潔な包帯をかざしてさも痛そうに泣く真似をした。

「痛いの?」

と長男坊の大地が心配顔で母親に聞いた。

「多分ね、とっても」

と妙子が神妙に答えたので大地の顔は今にも泣き出しそうに歪んだ。

 目にはうっすら涙を浮かべている。

 救ったのは目をきょとんと丸くしていた―いまいち直次の痛みの理解できない―弟の大樹だった。

「ガリバー君…」

と大樹が首を傾げて呟いた。

「ガリバー君の親指」

と大樹はケタケタと嬉しそうに笑った。

 大樹は手足の指が漫画チックに誇張されたガリバーの絵本が大好きだ。

 まるで包帯で巻かれた直次の左手の指のように。

「ガリバー君のオーヤユビ」

と大樹が朗らかに歌うように言った。

 嬉しそうな弟を見る大地の顔が新しいおもちゃを手に入れたようにニヤリとした。

 敏夫はそんな子供達のやりとりを見逃さない。

 妙子に目配せして両頬がたるんで緩むのが意識されるほどの笑顔で子供達を眺めた。

 信号が変わった。

 二台は合図のクラクションでふた手に分かれた。


「ガリバー君のオーヤユビ」

「ガリバー君のオーヤユビ」

と大樹が言った。

「ガリバー君のオーヤユビ」

と大地の笑い声が加わった。

「ガリバー君のオーヤユビ」

と子供達ははじかれたように笑い転げた。


 土曜日の朝、その日は三週間を費やした会心の作品である江戸時代の箪笥が売れて配達する日だった。

 敏男の仕事は古民家から時代箪笥を買い付け、その箪笥をコツコツリメイクすることだった。

 バラバラにしてみると時代箪笥には一つとして同じものが無かった。

 古き良き時代の職人に感嘆したりほくそ笑んだりしながらその都度独創性を要求され、敏男は気の遠くなるような手仕事に没頭する。

 敏男は江戸時代の素朴で荒削りでそれでいて職人の技の秘められた手仕事をこよなく愛していた。

 配達のドライブは直次の痛々しい怪我情報で出足をくじかれたが結局子供達のはしゃぐ声に終始した。

 その日も敏男は平和で幸せのうちに暮らした。

 それは結婚以来続いている常で色々な現実の中にありながらも揺るがないという不思議な感覚だった。



 日曜日の朝、妙子はパンが焼きあがるのを待ちながら新聞に目を通していた。

 オーブンから香ばしい臭いが漂い始めるとギャルソンエプロンのポケットで携帯電話が鳴った。

 小学校六年の少女が親友をカッターナイフで殺害した事件の続報を読みながら

『いったい世の中は何を間違ってしまったんだろう…』

と七年前の少年酒鬼薔薇事件以来妙子が考え続けている―自分の子供達も同じ世の中で育っていくからか気になって仕方ない―漠とした不安が広が
っていた。

 妙子は条件反射でボタンを押した携帯を耳に当てはしたものの思考の切り替えが遅れて

「もしもし」

の声が喉に詰まった。

 言葉がつかえてワンテンポ遅れた。

「………」

 偶然だった。

 無言の相手を予想していたわけではない。

 たまたま先方の気配を伺うような間ができてしまったにすぎない。

「………」

と向こう側でこちらの様子を探っているのがありありと感じられた。

「もしもし……」

と妙子は眉をひそめた。

 携帯電話は沈黙している。

 いや微かだが息をひそめていることが伝わってくる。

 妙子の思考回路は瞬時にしてすべて中断され代わりに不愉快な感情だけが彼女を支配した。

「もしもし」

と妙子はもう一度言った。

 口調がきつくならないように注意したので却って声のトーンが凄んだように響いた。

「………」

 妙子は携帯を耳から離して、手のひらの中のそれをつくづくと見つめた。

 客観的に観察すれば何か事情が分かるとでもいうようにして。

「あらっ?」

 電話は敏夫のものだった。


 朝の慌ただしさで同機種色違いの二人の携帯を間違えてしまったらしい。

「もしもし……」

「………」

 プツンと電話が切られた。

 相手方がしびれをきらしたのだろうか。

「腹減った。焼けた?」

とパンの香りに誘われた敏夫がパジャマ姿で台所に入って来た。

「天気いいから縁側で食べようか、気分いいよ」

と睡眠がたりて屈託がない。

 妙子は先ほどの不機嫌を無性に敏夫にぶつけたくなって、精一杯不機嫌な顔で

「んっ!」

と携帯電話を差し出した。

 彼女自身その仏頂面の裏側に潜む、すこぶる甘えたがりの女心が意識された。

 敏夫と知り合う以前の妙子はその種の感覚を男に媚びるようだと反発していたのだが敏夫と出会ってからは甘えたい自分の存在を素直に認めるにや
ぶさかではなくなった。

「んっ?」

と呑気な態度で敏夫は電話を受け取った。

「なーんだ?」

とちゃかそうとする物言いで、敏夫が妻のご機嫌が斜めなのを敏感に察知していることを告げていた。

「無言電話」

「いつ?」

「今」

「誰だろう?」

「愛人から」

「バーカ!」

「あらっ、私の気配をジィーッと伺ってたもの」

「んなはずないだろう」

と敏男は妙子の肩に両腕を回して抱き寄せた。

「わかんないわよ、ナンパなんだから」

と妙子の声が媚びを含んだ。

 敏男は妙子の首筋に無精ひげの顔を埋めて

「うーん、愛人かぁ」

と言いながらちゃっかり妙子の唇を捉えて熱心にキスした。

 妻の不機嫌にはスキンシップが特効薬なのだ。乱用気味にも係わらず効果は絶大で、ささいな行き違いやギクシャクしがちな生活習慣の食い違いも敏
男はひとえにスキンシップ、スキンシップ一本やりでクリアしてきた。

「お腹すいたよぉ」

「なんか食べたーい」

と大地と大樹がやってきて

「あー、ズルイ、僕も」

「僕もチューしてー」

と抱き合う父親と母親の間に入り込んだ。

「ブチュー」

と敏男は子供達にもキスした。

 敏男は子供にも単純でとても分かりやすいスキンシップを多用して子供達から信頼と愛情を得ていた。

 平和な暮らしはそうした敏男の動物的行動に起因するところが大きい。

 携帯電話が鳴った。

 敏男と妙子はほぼ同時にギクリと音のほうを振り返った。

 子供達のお気に入りの「森のくまさん」のメロディーが軽快に続いている。

 バイブレーション機能がトンチンカンな拍子を刻んでテーブルの上をイゴイゴと這いまわった。

 妙子は腫れ物にでも触るようにしてこわごわ携帯を取り上げると、ゆっくりとボタンを押して耳にあてた。「もしもし…」

と妙子が探るような物言いになるのは致し方ない。

「あらっ、おはようございます」

 妙子の声のトーンが幾分明るいものに変わった。

 不如意で対応できずに切り替えが上手く行ず、『しまった、もっと明るい声をだすべきだった』と言わんばかりに敏男に片眉を吊り上げてみせた。

 敏男は電話の相手を把握できない不安から妙子の真意を読みきれずに拠り所を求めて軽く子供達を抱きしめた。

「ちょっとお待ちください」

と妙子が敏男に携帯を差し出した。

「誰?」

と敏男が電話相手に聞こえないように口の動きだけで聞いた。

「あ・い・じ・ん」

と妙子が一文字一文字を強調するよう区切って敏男の耳元に囁やいた。

「バーカ!」

とじゃれたもの言いの敏男は緊張を隠してさりげなく携帯を受け取った。

子供達は父親に解放されて、

「お腹すいた」

「なんか食べたい」

と口々に母親に訴えた。


「もしもし敏男、私、良子やけど」

と聞きなれた姉の声が言った。

「なんだ、ネーちゃんかぁ」

と思わずリラックスした声になった。

「なんかさっき美由紀が電話したらしいんだけど」

「ネエちゃんが、僕に?」

 敏男は子供達の喧騒から逃げてキッチンから縁側に出た。

 敏男にはの”ネーちゃん”と”ネエちゃん”二人の姉がいる。

 心配性で面倒見の良い年かさの良江は病弱だった母親代わり、自己中心タイプの年下の美由紀は姉と言うより我が儘な妹のようで子供の頃から敏男
の手を煩わせる存在だった。

 美由紀の離婚騒動が持ち上がったことがある。

 別居するというので敏男は老いぼれのマルチーズを押しつけられた。

 新しい主人である敏男に馴染まず散歩をかかさない面倒見の良い妙子にすら牙を剥き出して唸るような犬だった。

 程なくよりを戻したというのでルルと言う名のその犬を連れて妙子と二人訪ねると玄関でシーズーの子犬に出迎えられた。

「ルルはいらないのよ」と美由紀は足下にまつわりつく子犬を抱き上げて頬ずりした。

「連れてけないから貰ってくれって頼んだのネエちゃんだろう?!」

「敏男が『うん』って言うから駄目なのよ」

 なじる立場の敏男が逆手をくらった。妙子がルルを抱いて帰った。

 敏男は身内の恥部をさらした居心地の悪さを感じながらルルを飼い続けた。

「ちょっと敏男ちゃんと聞いてるの?」

と良江が母親じみた声を響かせた。

「あぁ…、聞いてる」

と敏男は良江の電話に頭を切り換えた。

 昨年美由紀の夫は癌で他界した。

 離婚云々と波風は立てたものの結果的に美由紀は義兄と添い遂げたことになる。

 生命保険を受け取って悠々自適に解放された姉は中古の家を売り払った頭金で娘夫婦と同居するために新築を購入した。

 しいては小回りが利いて働き者の敏男に引っ越しの手伝いに来いという内容だった。

 ただし敏男一人で。

「行ける訳ないだろう」

と敏男はもごもごと言い訳する弟口調になったことが腹立たしかった。

「なんでぇー、忙しいの?」

と良江の不満げな声に美由紀の思惑が透けて見えた。

「だいたい妙子になんて言って出るの?」

「適当に言って出掛けたらいいじゃないの」

「僕は家で仕事してるの。適当とか隠し事はしない。そうやって仲良くやってんのに」

「だけど美由紀だって大変なのよ。いくら引っ越し屋さんが来てくれたって男手もなしに女一人で引っ越しなんて大仕事はできないわよ。それにゴミだって
沢山あってアンタに処分して欲しいって言うし」

と良江の話は業者の段取りや金の詳細まで縷々並べ立てて妹の心情を代弁するうちに自分の青春時代を如何に妹や弟に尽くしたかという繰り言に変
わった。

「さっきの電話ネエちゃんなんだろう?!」

と詰問口調で敏男は良江の話を遮った。

良江の愚痴はきりがない。

 結局ルルは散歩途中近所のドーベルマンにたてついて首根っこをやられた。

 箸でついたような小さな噛み傷からほとばしった鮮血が致命傷になった。

「可哀想なことをしてしまった」

と妙子は泣いたが敏男は泣けなかった。

「妙子におはようも無しで朝から無言電話だよ」

「そりゃぁ美由紀にしてみたら妙子さんとは話したくないのよ。保証人断ったのは妙子さんなんだし、連帯保証人の代わりに団体信用とやら使うと余分に
三十万以上かかるらしいわよ」

 敏男は良江の物言いに妙子が避難されたようでカーっと頭に血が上るのを感じた。

「引っ越しの手伝いには行けない」

と敏男はきっぱりと言った。

「ネーちゃんが頼んでもか?」

と弱気な声で良江が言った。

「いつまでも親や姉弟のご機嫌伺いしてられないよ。子供が生まれて僕はもう親なんだし結婚して所帯持ちなんだからね。大地がいて大樹がいて妙子も
いるのにネエちゃんに振り回されるわけにはいかないんだよ」

と敏男は気持ちを押さえつけて淡々と主張するように言った。

「アンタ、昔から優しいだけの子だったのに…」

と淋しそうに言って良江の電話がポツンとは切れた。

 敏男は苛立った気持ちの矛先を失って手の中の携帯電話を見つめた。

「ごめーん!」

とせっぱ詰まった大樹の声がした。

 敏男を押しのけた大樹が窓を開けると大急ぎでパジャマをずりおろして庭に向かって放尿しはじめた。

 気ままに刈り込んだ木々の茂みでひっそりと佇む苔生した狸の置物の傘めがけて小さなおちんちんを突きだしている。

 たっぷりと尿を浴びた緑がきらきらと光り、古ぼけた狸が洗われたように土の色を見せた。

 敏男は肩の力がすっーと抜けたように感じた。頬がたるんで緩んだ。

 結局敏男の行為は常に確固たる優先順位の現れでしかないのだ。

 そのことが幸せという空間の住人であることにつながっているのかもしれないと敏男は自分を納得させた。


 朝食が終わると妙子は子供達を連れて図書館に出掛けた。

 敏男はアトリエに使っている土間で仕事をしていた。

 三年前父親の援助もあって廃屋同然の古民家を安価で買い受けた。

 小さな川の横の小さな家は江戸時代の面影を残した低い屋根の庵で住所に「モタレ」と記される。

 里山の麓の片隅、田圃の切れ端に建ち、先代の地主によれば落ち延びた武者の仮住まいだったという。

 敏男は瀬の音と窓からの壮大な山の景色に魅せられた。

 田の字に和室が四つ、回り廊下のような縁側、踏み固められた土間には薪をくべるかまど二連が鎮座していた。

 どの部屋にも物入れのスペースがついていてそこに仕込ダンスと呼ばれる朽ち果てかけた四棹の時代箪笥が眠っていた。

 何の気無しにフリースの袖口で埃を拭った敏男はあの瞬間タンスに眠っていて精霊に取り憑かれた。

 歓声をあげながら辺りを探索する妙子の声をBGMに夢中でタンスを磨き続けていた。

 時代箪笥の精霊に取り憑かれた敏男は隣町に隠居の指物師を探し当てた。

 無愛想な老人を説得して弟子入りさせて貰いタンスのいろはを拾得するのに長くはかからなかったが、細々ながらも食べていける箪笥作家になるまで
の二年間は妙子のバイトで食いつないだ。

 妙子は敏男のコツコツとした誠実さに職人としての才能を信じた。

 敏男は妙子が信じている敏男の才能を信じることでかろうじて堪え忍んだ。

 今朝の敏男は大正ロマンの香りのする飾り棚と向き合っていた。

 地元の煙草屋から買い受けたものである。

 黒ニスが塗装されたガラス棚で壊れて無くなっている下の引き出しの取っ手の穴には紐が結わえ付けられ、その紐のすり切れ具合にこまめな商売の
面影が感じられた。 

 天辺中央に施された四センチ画の菱形のはめ込み細工は茶の濃淡で、濃い色を見ると猫を描写したように見えるものが淡い茶色を眺めると葉模様を
描いていた。

 見事な総ケヤキ材で側面のベニヤまでもがケヤキだった。

 舶来品を真似ることがハイカラだったのか合板の価値も意味も分からずに丁寧に模倣したのだろう、板のほうが良い箇所なのにわざわざ合板を作っ
て素晴らしいケヤキの木目もわざわざニスで塗りつぶしてある。

 敏男は大正当時の箪笥職人の素直さに触れようと愛着を示すように桟を優しく撫でた。

 手の平にニスのざらつきが引っかかった。塗装膜が肌に馴染むことを阻んで滑らかな感触を拒む。

 敏男の愛する木の息吹が無かった。

 化学がその呼吸を止めていた。

 敏男はしゃがみ込んで引き出しの紐の奥に手を突っ込んで黒ニスが剥げ落ちた部分に指先を走らせた。

 そこにはケヤキという木の堅く確かな息づかいが感じられる。

「くそっ」

と呟いて敏男は立ち上がった。

 考えがまとまらない。

 剥げた箇所に黒ニスを塗装してもう一度大正ロマンを再現すべきなのか、それともいっそ全ての塗装膜を削って新たな硝子戸棚に仕立て上げるほう
が良いのか。

「どちらがお好みですか?」

と敏男は菱形に収まっている猫に話しかけた。

「どうすればお気に召します?」

 視界の猫が葉模様に化けた。

 敏男はあきらめてとりあえず磨り減った扉の溝レールをはめ直すことにした。

 師匠である指物師から譲り受けたものに混じって買い受けで集めた時代物の板や箪笥の端切れが乱雑にかためられてある片隅の方へブラブラと行っ
た。

 敏男は適当な板を探すために板の山に手を突っ込んだ。

「痛っ」

と人差し指の腹に棘のささる気配がした。敏男は痛みの走った場所をじっと見つめた。

 48歳の老眼で焦点のずれた指の腹に針で突いたように小さな血がぼやけて見える。

『今日は朝から踏んだり蹴ったりだな』―「アンタは昔から優しいだけの子だったのに…」 突然良江の声が蘇った。

『優しいだけの子とは一体どういう意味なんだろう…』

 敏男はレール用の板を探し当てて手に取ると電気カンナのスイッチを押した。

 高速回転する鉋刃の上に手押しで板を通すプレイナーと呼ばれるそれは師匠のお下がりの中古品だった。

『幸せにやってる弟夫婦に姉が二人で水をさすというのはどういうつもりなんだろう…』―だいたい妙子にネエちゃんのゴミ掃除なんかさせられる訳がない。
 敏男は買い出しに出向いた家でゴミ処理を頼まれることもあるが、他人のゴミだから処分できるのだ、嫁や姑やとかくぎくしゃくしがちな身内のゴミなど却
って嫌やなものなのだろうと推察してついでだからと引き受けることが往々にしてある。―「敏男が『うん』って言うから駄目なのよ」 美由紀の声が思い出された。
 敏男は板をプレイナーにセットしながら妙子が泣きながら抱きしめて帰ってきた汚れていらなくなったセーターのようなルルの死体を思った。

 ルルの事で信用無くしたのはネエちゃんの方じゃないのか。

 敏男が両手で板を押し進めるとプーンという音とともにみるみるうちに刃が板を削っていく。

 敏男は逆恨みして黙って妙子の電話を切った姉に無性に腹が立った。

 妙子に対して恥ずかしいような、妙子が傷つけられたような。

 ガツンと強い衝撃があった。

 敏男には一瞬なにが起きたのかが理解できなかった。痛みがなかった。ただなにかにぶつかったような大きな衝撃だけがあった。

 敏男は左手を見た。

 板を支えていた中指と薬指が斜めに削られていた。

 プレイナーで指を飛ばしたのだ。

 指先の肉が無かった。

 たいした出血もない。

 二本の指とも白い骨が見えている。

 さっきの衝撃は鉋刃に骨があたった衝撃だった。

『とんでもないことをしてしまった』

 冷や汗と焦りが吹き出してくる。

 あいかわらず痛みは感じられない。

 敏男はのろのろと部屋にあがって左手をタオルでぐるぐる巻きにした。

『とんでもないことをしてしまった』

 タオルがみるみるうちに血で染まっていく。

 足下の畳に鮮血がボトボトとしたたり落ちる。

『とんでもないことをしてしまった』

 敏男はポケットから携帯電話を取り出すと妙子のベルを鳴らした。


「もしもし妙子、あのねぇ…」
と冷静さを保とうと努力する敏男の声が微かに震えた。

 瞬時に妙子はいびつにビブラートした語尾に何かを感じ取った。

 以前に一度だけ同様の敏男の声を耳にしたことがある。

 走馬燈のような二人の出来事がハイスヒードのコンピューターのようにとある記憶に辿り着いた。

 胎児の心拍が下がっている、このままでは母子ともに危険。初産の陣痛で苦しむ妙子に帝王切開の手術にきりかえると説明した、そうあの時。

『ろくでもないことが起こった』

と妙子は高ぶりを伴わなずに覚悟とか決意とか仰々しい思いが体の芯で固まっていくのを感じた。

 敏男の失った冷静さを逆に妙子が腹の中で吸収したような錯覚があった。

「僕…、直次さんと同じことをしてしまった」

と敏男は馬鹿な奴をせせら笑うように言った。

「直次さんと…」

と言った妙子の中に既に驚きは無かった。

 めまぐるしい脳の回転が意識されて次に取るべき自分の行動を計算していた。

「すぐ帰る」

 妙子は電話を切ると子供達を連れて駐車場に走った。

 走りながら子供達に事情を説明し、南製材に電話をかけて病院の電話番号を尋ねた。

 妙子は調べて折り返し電話すると言う直次にありがとうを告げて車を発進させた。

『私の体のまん中には冷たい太い線がある』

 妙子は泣くことも喚くこともしない自分の心を見つめた。

 そこには女や妻が脱皮されて母親に化けていく感覚があった。

野生動物の本能を彷彿させるそれは妙子が敏男の庇護下に居る状態には陰を潜めていたが、妙子と敏男の立場が逆転する時は一本に凝結されるのだった。

 妙子が家に帰ったのと直次が駆けつけたのが同時だった。
 孫の慎吾も付いて来ていた。

 直次は病院に電話を入れて救急の予約もしてくれたという。

 妙子は直次に子供達の面倒を頼んで敏男の左手のタオルを外した。

「痛い」と傷口を見た妙子はさすがに顔をしかめて聞いた。

「いや」と敏男が眉をつり上げてみせる。強がる時の敏男の癖だった。

「本当?」

「うん、不思議に無感覚なんだよ」

「神経が無くなっちゃったのかしら」

と妙子は骨の露出した部分にうがい薬をたっぷりとたらし込んだ。

 子供用にと買っておいた物だがそれ以外消毒できそうなものが見あたらなかったのだ。

「乱暴だな」

と敏男は妙子の手の動きを注視したままで言った。

「これしかないの」

と妙子が子供用の傷当てパットでそれぞれの指をがんじがらめにしていく。 

 どちらかというとぞんざいな手つきでアメリカ女がたいして旨くなさそうな料理をつくる映画のワンシーンを敏男に思い出させた。

 敏男は妙子の粗野な手先の動きを愛している自分をぼんやり思った。

「きつくない?」

「多分」

「まんざら嘘でもなさそうね、間違いなく神経は切れてるけど」

と妙子がニヤリと笑った。

「そういうユーモアは僕の持ち分なんだけど」

「逆転ね、怪我人のあいだは」

 致し方ないというように目を細めて軽く頷いた敏男を乗せて妙子は病院に向かった。

 敏男が激痛に襲われたのは家に帰って麻酔が切れ始めてからだった。
 医者から万全を期するために骨を削る治療法が提示されたが職人の指先だからと懇願する妙子の訴えが勝って中指四針、薬指が五針縫合するだけ
にとどまった。

 思っていたより大したことなかったと高を括っていたものがしびれた指先に感覚が戻り始めると、白い包帯の内側に神経という名の巨大な化け物が住
み着いたような思いに囚われ始めた。

 程なく激痛が訪れた。

 ズキンズキンとな痛みが波のように押し寄せてくる。

 敏男は痛みが少しでも紛れないかと肘を折って心臓の高さより高くなるように左手を持ち上げた。

「痛いの?」

と大樹が心配そうに庭に置いてある細長い床几に座る敏男の顔をのぞき込んだ。

「まあね」

と敏男は眉をつり上げてみせた。

「どのくらい?」

と父親の頭上にある青空を背景にした包帯を見上げた。

「すっごく」

「すっごくってこのくらい?」

と大樹は両手で自分の頭の大きさぐらいの丸を作ってみせた。

「ううん、もっと痛い」

「じゃぁこのくらい?」

と大樹はぐるりと回して大きな円を描いた。

「もっともっと、メチャクチャ痛い」

 今やズキンズキンをはるか通り越してガンガンする痛みが襲ってくる。

「メチャクチャってこーんな?」

と大樹は精一杯腕を広げてでっかい丸を描こうと背伸びした。

 笑おうとした敏男は再び激痛に襲われて顔を歪めた。

 大樹は父親が笑えなかったことにショックをうけて描きかけの丸を諦めて打ちひしがれてうなだれた。

 敏男が座り位置をずらしてスペースを空けると大樹は父親に寄り添うようにしてそこに座った。

「お父さん、泣かないの?」

と大樹が困ったように首を傾げて敏男を見つめた。

「うん、泣かないよ、男の子だからね」

「男の子だって泣いてもいいんだよ」

と大樹は少し考えてから下を向いて呟くように言った。

「痛かったり悲しかったら泣きにおいでって、お母さん、言ってたもん」

と怒ったように言った。

「ガリバー君のオーヤユビ」

と言って敏男は眉をつり上げて笑ってみせた。

「………」

と大樹は清潔な包帯をじっと見ている。

「おかしくないかい?」

「………」

と大樹の目にうっすらと涙がにじんだ。

「笑わないの?」

「………」

と大樹は袖口で溢れる涙を拭った。

「お父さん、痛いから………」

としゃくり上げて泣きやむことができない。

「ありがとう」

と敏男は左腕を下ろして大樹の肩を抱き寄せた。

 激痛が走った。

 体中の血が逆流して切断して失ったはずの中指と薬指の毛細血管の全てにジリジリと集まっていく幻覚が見えたように感じた。

 それでも敏夫は大樹が泣くのを止めるまでその肩を抱きしめていた。

 敏夫が和室に置いてあった妙子のポシェットをごそごそ探っていると妙子が洗濯物を抱えて入ってきた。妙子は敏夫の行為にギョッとしたが咎めるまい
とかろうじて平静を装った。
「痛み止め何処かな?飲むよ、やっぱり」

と敏夫が言った。

 悪戯を見つかった子供が必死で言い訳するような物言いに後ろめたさが滲んでいる。

「凄く痛い」

「だから言ったでしょう、麻酔が切れるに飲んどくほうが痛みを楽にやり過ごせるって。トンプクなんて一過性の薬だから二三回飲んだって大丈夫よ」

と妙子の口調が叱る母親じみた。

「我慢できない訳じゃないんだ。ただ僕が痛がると大樹が可哀想で」

「泣かれたの?」

と妙子が言った。

「オイオイとね。痛そうにしたつもりは無いんだけど笑えなかったのが拙かったのかな?きっと心配してたんだよ、病院行ってる間も―慎吾君が随分遊ん
でくれたらしいから逆に頑張っちゃったのかな。楽しそうにしてたって大樹は、直次さん―大地は神妙だったらしいよ、ジィーっと本読んでるんだって、怖
い顔して」

「二人とも敏感だから」  

と妙子が頷いた。

「ともかく飲ましてよ。これ以上子供達に心配させたくないから」

「台所よ、薬。流しの前の窓の所。いつでも飲めるように出してといたの」

と妙子は洗濯物を放り出すとさっさとキッチンへ行くと、水の入ったコップと薬を手にすぐに戻ってきた。

「飲んで」

「んっ、ありがとう」

と敏夫は呷るように飲み下して、畳の上にゴロリと横になった。

「お布団ひいたげましょか」

と妙子が洗濯物を寄せると、部屋の真ん中に一組の布団を敷いた。

 家族四人で眠るためにいつもは六畳間一杯布団を敷き詰める。

 その光景に見慣れている敏夫は一組だけの布団にふと艶めかしさを感じてゴソゴソと潜り込んだ。

「こんな時間から」

と脇で洗濯物を畳む妙子の尻に手を伸ばした敏夫は激痛に襲われた。

「お天道様に申し訳ない」

と冗談のつもりが敏夫の苦痛は呻り声になった。

 敏夫は戦いに敗れた匍匐前進の歩兵の呈でバタリと突っ伏して、指先で空を掴むようにして痛みに絶えた。

「エッチなんかしたら血管破裂して指腐っちゃうわよ」

と妙子は笑って立ち上がると部屋を出ていった。

 尻を触るはずだった腕をそのままにして敏夫は体をエビのように丸めて目を閉じた。

 程なく大地が両手にタオルで巻かれたアイスノンを掲げて入ってきた。

 母親に言われたのだろう。

 大地はそれを枕元に並べて置くと畳に伸ばしたままになっている敏夫の手をそっと持ち上げて載せた。

 始終無言で緊張している。

 大地は畳に顔面を擦り付けるようにして包帯がアイスノンに密着しているのを確認すると詰めていた息をふぅーと吐き出してから静かに部屋を出ていった。

 大地を気遣って寝たふりをしていた敏夫は冷やされて痛みが和らぎ始めるとそのままうとうとと本当に眠ってしまった。

 何処か遠くで「森のくまさん」のメロディーが鳴っている。

 夢の中でその音楽を聞いていた敏夫は現実に妙子のポシェットの中でくぐもった音がしていることに気付いて目を覚ました。

 部屋はいつの間にか薄闇に包まれていて人の気配がなかった。

 襖一枚隔てただけのキッチンも静かだった。敏夫が腹をすかせて起きてくるのを待つ間に風呂を済ませてしまうことにしたのだろう。

 土間の奥にある風呂場の方から子供達の喧噪が聞こえて来る。

 敏夫はズルズルと畳を這うと妙子のポシェットから手探りで携帯を見付けた。

「もしもし」

と敏夫が出たのが一足遅かったのか電話は既に切れていた。

「くそっ」

と敏夫は小さく呟きながら通話を切断する赤いボタンを押した。

 すると画面でアニメのひよこがスケボーを滑って愛嬌たっぷりの顔で敏男を見た。

 赤いボタンを押すと動くように子供のお気に入り画像を妙子が取り込んだものだ。

 大地が料理する母親の側で時たまボタンを押して笑っているのを見ることがある。

 ひよこに笑いかけたのだろうか、ひよこが自分に笑いかけたと思ったのだろうか…。

 敏夫は大地を思ってふっと微かに笑うことで心が温まるのを感じた。

 薬が効いたのか激痛が嘘の様にひいていた。

 敏夫は起きあがると風呂場に向かった。


「よくやるよなぁ…」

と仕事の合間に顔を出した直次が遅々として進まない敏夫の手作業を眺めていた。

「機械ではアカンのか?」

と新しい材料でスカッとした大工仕事に慣れた直次は感心半分、半ば呆れている。

 敏夫は黒ニスの塗装膜をサンドペーパーで擦り落としていた。

「ビンテェージって呼べばいいのかなぁ、傷とかすり減ってしまった所とか使い古された味を残したいんだよ。歴史だからね。機械だと綺麗になりすぎるか
らね」

と敏夫が言った。

「こいつ100年近く経ってるだろう、時間の流れとか色々、そんなこと考えてたらこのくらいの仕事この箪笥にとったら蟻ンコみたいなものだからなぁ」

と笑った。

 日本列島の中央辺りに位置するこの地方は戦争や地震の難を逃れてきた地域で100年はざらで、あわよくば150年以上の江戸箪笥も残っていた。

 そのため自分の仕事を「蟻ンコ」と評するのは敏夫の口癖になってしまった。

「まだ痛むやろう。大丈夫か?」

と直次は自身も同様に落とした指先を示して言った。

「もう痛くないんだ」

と敏夫は不安げに目を泳がせた。

「ほうかぁ、わしなんかまだイィーするほど痛い時があるぞ」

と直次は怪我した指を撫でた。

「いつまでもさぼってられるほど豊かじゃぁないからね」

と敏夫は包帯の取れない手を見た。まだ十日ほどしか経っていない。

 指先という箇所が厄介なのか神経がじりじりと焼かれるような痛みで夜中に目が覚めることがある。

 その度敏夫はトンプクを飲んだ。

 医者から処方された痛み止めの薬は三回分で一日と保たなかった。

 敏夫は「一過性だから大丈夫だ」と言った妙子の言葉を頼りに近所の薬局に出かけてトンプクの大箱を買った。

 近頃とみに進んだ老眼もあって碌に説明書も読まずに痛みが訪れるととりあえず服用した。

 飲むとしばらくして指先の激痛が嘘のように消えた。

 夫婦の間で隠し事をしないのが信条の敏夫だったが、痛みのこともトンプクの事も、どうしても妙子に正直に言う事ができなかった。

 結婚以来始めての隠し事をした後ろめたさも手伝って敏夫はコソコソと妙子の目を盗んではトンプクを飲み続けていた。

「いぬわ」

と直次が言った。

 いぬはこの地域の方言で帰るの意である。

 直次が軽く左手を揚げた。

 大きくて厚みのある手のひら太く短い指も頑丈そうであるのに傷が盛り上がったばかりの二本の指だけが淡く白く柔な印象だった。

「何や顔色悪いなアイツ」
と直次は帰り際、家庭菜園の妙子に声をかけた。

 妙子は日当たりの良い表庭に作られた小さな畑で筋蒔きにしたバジルの種に土をかぶせていた手を止めて立ち上がった。

 青菜や旬の根菜類は年季の入った百姓連のお裾分けにはかなわない、そちらは近所の爺婆に甘えてはもっぱら薬味野菜やハーブばかりを育ててい
る。

「怪我人言うより病人やな」

と言う直次を妙子は渋い顔で腕組みをして見送った。

 直次が行ってしまうと妙子はしばらく作業も忘れて床几に座って物思いに耽った。

 その夜、子供達の寝息に混じって敏夫の起きあがる気配に妙子は目を覚ました。

 既に一寝入りした感があるところをみると真夜中2時3時頃と思われる。

 敏夫は抜き足差し足で部屋から出て行くとキッチンを通り抜けて土間に下りた。

 つっかけた草履が地面にこすれてかさかさと乾いた音をたてる。

 妙子は箪笥の抽斗を開け閉めする気配に身を起こすと静かに立ち上がった。 


 敏夫が台所に戻って蛇口をひねった。

 コップに水をくみ、手の中のトンプクを口に放り込んだ。

 飲もうと顎を上に向けると背後でガラリと襖の開く音がした。

 ギョッとした敏夫は喉に薬がつっかえて激しく咳き込んだ。

 敏夫は白い錠剤を流しにペッっと吐き出した。

「大丈夫?」

と妙子が飛んできて敏夫の背中をさすった。

「これ何?なんの薬?」

 敏夫は険のある目つきで自分を見る妙子にたじろいで後ずさると項垂れた。

 妙子は裸足のまま土間に下りると大正時代の飾り棚の抽斗を片っ端から乱暴に開けた。

 一番下の隅っこにそれはあった。
 妙子はトンプクの大箱を見付けると耳元で振った。

 中身が空っぽに近い量しか入っていない軽い音。

 妙子は念のため蓋を開けて残量を確認した。案の定二錠しか残っていなかった。

 妙子は胸に手を当てて唾をゴクリと飲み込み、冷静になろうと努めて顔をゆっくりと持ち上げた。

 テーブルを支えにして佇む敏夫が遠くから脅えた子供のように妙子の様子を眺めていた。

「痛いの?」

と妙子は優しい眼差しを敏夫に向けてキッチンに戻ってきた。

「……」

と敏夫は無言で頷いた。

「いつから飲んでたの?」

と妙子はできるだけ詰問口調を避けようと努力していた。

「病院の薬が無くなってからずっと……」

「どのくらい飲んじゃったの?」

「さぁー??」

と敏夫は肩をすくめて見せた。

「怪我の後遺症より薬の副作用の方が怖いのよ」

と妙子が言った。

 妙子は脅えて立ちすくむ手負の鹿に近づくようにして息を潜めて敏夫の傍へ行くと、その背中にそっと両腕を回した。

「本当に痛くないんだとばかり。ごめんね、気が付かなかったの。直次さんに言われて思い当たった。言ってくれれば良かったのに。一人で我慢する事無
いのに」
と妙子は子供達を抱きしめるように敏夫を抱いた。

 いつもは大きな背中が一回り小さくなったように感じて頬を寄せた。

「大地も大樹も、出産の時、妙子一人が頑張ったから」

と敏夫がポツリと言った。

「だからこのくらいの痛みで泣きごと言えない気がして―痛がる父親なんて格好悪いから―でも凄く痛いんだよ。情けないくらい痛いんだ」

と敏夫は右手で左手首を鷲掴みにすると妙子から体を離した。激痛が走る。

 痛みが針金虫のように二本の指先から続々と放出されていく。

 意識に関係なく涙がポロポロと零れた。

 止めることができない。

 押しとどめていた嗚咽が唇の端から漏れる。

「悲しかったり辛かったり痛い時もお母さんの膝で泣くように大樹に教えてるの。あの子泣き虫だから」

と妙子は床に座り込んで敏夫に手を差し延べた。

「お願い、此処に来て。私の為にも」

 敏夫は妙子の膝の上で胎児のように体を丸めた。

 妙子は体全体を使ってすっぽりと敏夫を抱いてしまった。

 敏夫は間断ない呻き声とハラハラと落ちるに任せた涙で指先の痛みが和らいでいく確乎たる感覚の不思議に囚われた。

 妙子の腕の中には小さいけれども暖かな空間が存在する。

 敏夫はその空間に身を任せながら二度とトンプクを飲まないであろう己を探していた。

 半年が過ぎた。
 紫外線の強い五月を経過したおかげで中指と薬指は日焼けして怪我の痕は判然としなくなっていた。

 敏夫は江戸箪笥の天板に打たれた錆びた鉄錨を磨いていた。

 薄く肉が貼った指先は斜に切り落とされた形のままで、縫い合わされた先端は血肉が盛って原型に戻ることはなさそうだった。

 尻尾の切れたトカゲのように再生能力を発揮する事ができない透明人間の指先で、時折意識野だけに存在する神経が火花を散らしてショートする。

 痛みと呼べるほどのものは無かったがチクチクと走る不快感が残った。

 敏夫は幸せという空間の住人でありたいと単純に願っていたはずの自分が望むものは幸せばかりでは無いことを痛感したあだのような記憶を反芻し
た。

 あの夜を境に敏夫は薬に頼ることを止めた。

 二錠残りのトンプクはトイレに流され、激痛に襲われる度に敏夫は妙子に抱かれてやり過ごした。

 妻に甘えることは敏夫にとって至福の時間てあると同時に、与えるべきはずの自分が与えられる側の存在に堕ちていくある種心地よいむなしさを伴っていた。

「蘇った江戸の鉄。秘技だな。いい感じだ」

と敏夫は磨きあげた天板に独り言でほくそ笑んだ。

 敏男は今度は溝レールをはめ直す作業用の板を探した。

 板を構えた敏男はプレイナーのスイッチをオンにして細心の注意で板を削り始めた。ブーンと削られる板を凝視するうちに掌が汗でじっとりと湿っていく。

 斜交いに並んだ指が必要以上に緊張してチクチクした。

『もう一度ここに手を入れたら…』

 敏夫はドキドキした。

 事故以来この機械を使うと捕らわれる思いだった。

『ここに手を入れたら…。ここに手を入れたら…。ここに手を入れたら…』

 瞬間で指が飛ぶ。

 その時には苦痛などない。

 熱いのか冷たいのか判別できない血が流れるだけだ。

 大量の血が流された随分後になってからしか痛みは訪れない。

 瞬間でいいんだ。

 瞬間が必要なだけだ。

 一瞬手を入れるだけ。

 一瞬で指が飛ぶ。

 敏夫はスイッチをオフにした。

 敏夫は佇んだまま首だけで電気ノコを振り返った。

 電気カンナだけじゃないのだ。

 帯錠の鋸刃がビィーンビィーン音を立てて廻りながら木を切る時も同じ思いが囁く、

『手を入れろ。手を入れろ。手を入れろ』と。

 帯鋸ならどうだ。

 やつなら手首ごと持っていくだろう。

 大した違いはない。

 同じだ。
 瞬間だ。

 瞬間で喪失する。

 理屈じゃない―手を入れろ。手を入れろ。手を入れろ―

 体が知っている。

「コーヒーいれたの、開けて」

とキッチンから妙子の声がした。

 敏夫が戸を開けてやると妙子が土間に下りて来た。

 両手がアウトドア専門店で買った真空マグカップでふさがっている。

 ビールもコーヒーももっぱら愛用していて使い込んだ銀色と黒の取っ手がお気に入りだ。

 なにより飲み物の温度が持続できる合理性が気に入っている。

 二人は作業台兼用の長椅子に腰掛けた。

 敏夫はカップを受け取ると、深呼吸をして子供達を思った。

 放尿する大樹。

 携帯画像に笑う大地。

 笑い転げる二人。

 子供達を抱きしめた時の手の感触。

 なにより息子達が生まれてきた。

「昔父親が話してくれた事がある、多分小学校ぐらいの時」

と言う敏夫の脳裏は言葉とは違って家族のシーンを探し続けていた。

「相棒がね、機械に腕をもぎ取らせたんだって」

と敏夫は指を閉じたり開いたりしてそれだけ言うとそれきり黙った。敏夫が呟くように話すので妙子は神妙に聞いた。

 妙子は敏夫の真意が理解できなかったが沈黙を尊重して何も言わずにいた。

「口数の少ない親父だけどぽつぽつ大事な話だけは種を植え付けるみたいにする人だから」

 二人はそうやっていつまでも熱い珈琲を啜っていた。