60歳の章 冬も本番を告げたある初霜の夜明け、五時を少し回った時刻である。 秋の終わり頃からこれで十回、いや十五回にもなるだろうか、直次は畦の轍につけられた小さな足跡を辿りながら、未だ捕らえられない子鹿の大きさ
を値踏みしていた。 歩きながら無意識に作業ジャンパーの襟元のファスナーを引き上げて、吐く息の暖かさを襟元から首筋に取り込んでいる。 山育ちで鍛えられた頑丈な体躯も60歳の声をきいてからこっち、朝一番の冷え込みが多少こたえるように感じられた。 直次の性根は根っからが猟師だ。 丁稚修行を経験して祖父の製材所を継がされたものの、しきたりや在所づきあいの多い過疎化する村生活に不向きな繊細な神経が、自然と共有する
時間を必要とした。 商売上手の祖父よりもむしろ、片腕だった親父のねじくれた性格が根底にあるのだ。 直次は、今日こそはと谷間の斜面に仕掛けた罠を確かめた帰りだった。 鹿道を辿ってワイヤーを張りその足を捕らえる簡素な技は、鉄砲を構えることができなかった親父に教えられた。 一応地元の猟友会に所属はしていたが、だいの大人がチームを組んで一頭の鹿を追いつめて引き金を引く、その行為の持つ子供じみた遊び感覚が
好きになれなかった。 『わしは一匹狼や』 鹿も一頭わしも一匹。 一対一で対峙する。 本日も収穫は無し。 直次は、猪よけの柵が張り巡らされた田んぼの畦を迂回していた。
嫁が出産で四国に帰省している。 息子と孫の男所帯、今年のクリスマスは妙子に頼むしかあるまい、敏夫一家と交われば慎吾も寂しがらずにすむ。 妙子一人の花では華やかさに欠ける気がして、鹿一頭の収穫で食べ盛りの子供達を喜ばせてやりたかった。 心配せずとも来年からは赤ん坊が加わって陰のさした家族も日の当たる賑やかな生活を取り戻すだろう。 「ピュルルルーン、ヒュルルーー」 随分近くで鹿の声がした。 それは冷んやりとした空気に実に寂しげにこだました。 直次が目で足跡を辿って顔を上げるとほんの10メートル向こうにそれが立っていた。 猪よけの柵の中、霜の降りた田んぼのぬかるみに儚げな雌の子鹿がこちらを見ている。 鳶色の瞳が悲しげに何かを訴えていた。 鹿は不思議な野生だ。 林や里で偶然人間に出くわしても脅えることを忘れてぼんやり佇んでしまう。 逃げることよりも珍客に出会ったことを重視するのか、こちらがアクションを起こさなければいつまでもその姿を楽しむことができた。 直次は一歩踏み出した。少し脅かして山へ逃がそうと思ったのだ。 狙っていた獲物とはいえ棚からぼた餅ではせいが無い。 どのみち雌をつかむのは保護の観点から条例で禁止されていて、直次はそのての約束事を無視することを嫌っていた。 いつもなら、鹿は夢のように跳ねて山へ帰って行くはずだった。 ところが子鹿はその場をピクリとも動かない。 見れば両方の前足が折れてぶら下がっている。 骨の露出はなかったがかろうじて薄い皮膚一枚でつながっているだけの状態なのを鹿を見慣れた直次は瞬時で計った。 立っていられるのが奇怪だった。 餌を求めて猪よけを飛び越え柵に引っかかったのだろう。 先ほどの鳴き声は助けを求めて母親を呼んでいたのだ。 直次はポケットの携帯で同じ字に住む役所勤めの大塚を呼びだした。 「わしや、南直次や。すまんな、朝早から」 直次は群の生活課に勤務している大塚に事の次第を説明して鹿を保護するように要請した。 「直さん、食べてしまいいな」 「メンタやで。わし、スカン。助けたってくれ」 「それやったら県の担当や。県に電話して。番号言うさかいに」 直次は大塚の言う番号を携帯電話の音声メモプレーヤーに録音した。 「9時からやで。9時回らんと繋がらへんからな」 やり取りの間も直次は鹿の視線を眉間の辺りで受け止めていた。 直次がチラチラ顔を上げるとその都度二つの視線がぶつかる。 鹿は心配顔で直次をじっと見詰めていた。 「待っときや、又あとでくるさかいに」 直次は携帯をポケットにつっこむと着た道を戻った。 小さな川が苔生した石で跨いだだけの橋をくぐって緩やかな傾斜をなして下り、高く上ったばかりの朝の太陽が庵と呼ぶにふさわしい敏夫の古民家に
暖かな光を降り注いでいる。 直次の足もとから積年踏み固められることで道としての体裁を整えた一人幅の歩道が川沿いに18メートルほど延びていた。 横手の煙突から立ち上る白い煙が家人の一日の営みが目覚めたばかりなのを告げている。 軒下を這うように広がっていく生き物のような煙の動きを目で追いながらやって来た直次は、声もかけずに玄関を入ると土間から台所の妙子に声を掛
けた。 「煙突が低すぎるのと違うか?家が燃えとるように見えるぞ」 夕方なら酒の一杯もひっかけて軽口をたたく直次だが、朝一番で調子があがらず舅口調だった。 息子の嫁には意見一つ遠慮するが妙子相手だと気兼ねなく説教までたれる。 その気さくさが好きで山菜だキノコだ鮎だイワナだと手土産を携えては訪れ、馴れてたいそう喜びもしない家族よりむしろ大喜びで酒の肴に仕立ててし
まう妙子の方が直次の山自慢に詳しかった。 「どうしよう?直さん、ちょっと上がって」 と妙子が手招きした。 「彼は昨日から病院なの」 敏夫の父親が三日前脳梗塞で倒れたのだと言いながら、妙子は流しに置いてある藍色で彩色された古い大鉢を困ったように遠巻きにして眺めてい
る。 「何や、どないしてん?」 見れば大鉢の真ん中で親指の先ほどの小さなネズミが鎮座していた。 奇異な感じがして直次は歩み寄って大鉢をのぞき込んだ。 見ると一匹に見えた鼠はほぼ同じ大きさの二匹だった。 まず一匹が鎮座してそこに肩車をするような形でもう一匹が鎮座している。 奇妙な生きたトーテムポール、人柱ならぬ鼠柱。 「夕べ釜揚げのおうどんしたのよ。大きすぎて明日洗おうと思って」 なるほど底に浅く濁った水が1pほど残っていて、下の鼠は温泉気分のおじさんよろしく肩まで濁り湯に浸かっている。 うどんの臭いに釣られた欲張り鼠が二匹、行きはよいよいの蟻地獄に捕まったのだ。 遊び半分でつい悪戯をしてしまった幼子のように他意のないあどけない表情をしている。 「上がれないのね、この鉢、大きいから。足が滑るのかしら」 直次には妙子が鉢の造形的な丸みを言っているのか、単に大きさを言ったのか分からなかった。 もしかしたら汁に溶けでたうどんのでんぷん質によるぬるみの話なのかもしれないのだが。 「軍手ないか?」 「えっ、軍手。ちょっと待って」 と言った妙子が軍手を探しに土間のアトリエへ下りた。 「エエわ、エエわ。ワシがあった」 直次はポケットから取り出した軍手を両手にはめると、上の鼠をつかんで瞬時でその首をひねった。 指先の感触が一瞬で息の根を止められた小さな命の死を伝えた。 直次は死骸を手の平に残したまま、もう一匹も同様につかんだ。 直次は二匹目の鼠の首を手中でひねりながら土間に下り、玄関をぬけて川へ走った。 妙子がバタバタと直次の後に従う。 直次が手の中を川へ放り投げると二匹の鼠が川面に浮かんだ。 「死んでるか?」 「えっ?!」 川をのぞき込んで鼠の姿を目で追っていた妙子が直次に振り返った。 「ちゃんと死んどるか?」 「多分。あっ、あのネズミ、死んでないのかも」 指さす妙子が確かめる間も無く、小さな川がその屍を下流へと持っていく。 直次は妙子の脇から川を見詰めた。 「溺れるのは可哀想や…」 直次が妙子に聞かす為の独り言のように呟いた。 二人はしばらく黙ったまま何事もなかったようにせせらぐ川面を見ていた。 その沈黙を破るように遠くから救急車のサイレンが近づいてきた。 みるみる在所を縦断する農道に救急車が現れて山裾の屋敷の前で止まった。 サイレンが止んだ。 家の中に入っていく者、担架を運び出す二人組、白衣を着ている救急隊員がせわしなく動く様子がミニチュアの人形劇のように見える。 「西谷のとこの親父やな」 直次が言った。 「まだ若いのにな。鉄砲撃ちや」 「猟師さん?倒れたのかな?」 「殺生しすぎや。長生きはできん」 直次はひたすら広がる田んぼの向こうで動く救急隊員を眺めている。 その顔には幾筋もの厳しい皺が刻まれて死を司るものの覚悟があった。 妙子はいつも山話に興じる直次の山男としての側面を垣間見た気がして、黙ってその横顔を見詰めた。 直次の女房は息子が結婚した翌年の正月に実家に戻ってそれきり帰らなかったと聞いたことがある。 酔った直次が勢いでしゃべった。 腹がたつと先に手がでた。 わしにしてみればひょいとしたものなのだが川魚ばかり食べて育った骨太の拳骨は女房にはダメージが大きかったのだろうと。 いくつもの鼠穴が大堤防を決壊させたように直次の小さな一撃は夫婦を崩壊させたのだ。 封建社会の色濃い田舎町で、当時はDVという言葉すら無かったのだが…。 再びサイレンが沈黙を破った。 直次が妙子とクリスマスの約束を取り成して戻っても、子鹿はまだ其処に居た。 程良く時間を費やす間に小さな奇跡が起こって消えてくれる事を願っていたものが、子鹿は相変わらずの呈で佇んでいた。 「ちっぃ」 田んぼの端に止めた軽トラックの運転席で直次は舌打ちした。 本当は直次は奇跡など起きないことを知っていて、ただジタバタしたに過ぎない。 直次は発病した孫のために数えきれないほど祈ったが一度も奇跡は起こらなかった。 女房が出ていった後も奇跡を待ちわびたが結果は同様だった。 親鹿が子供を助ける心温まる奇跡など自然界にはありえないのは百も承知だ。 それでもあわよくば自分以外の誰かが鹿を連れ去ってくれれば…。 直次は携帯で時刻を確かめて、大塚に教えられた県の環境課に電話した。 送話口にでた相手は直次の説明を熱心に聞いてから、保護には莫大な費用がかかることを長々と嘆いた。 「結局どうしはるんですか?」 直次はうんざりして遮った。 「地元の猟友会に電話することになると思います」 「殺すんか?」 「はい。残念ながら」 「地元の猟友会やったらわしやがな」 と言うと直次は電話を切った。 直次は荷台に積みっぱなしのコンテナの中から刀を取り出した。 朝の空気を吸い取ったような研ぎ澄ました刃物の冷たい感触が伝わってくる。 直次は日本刀の刃を折って鹿の角にかち込んだそれを懐に忍ばせた。 直次は刀の放つ冷ややかさとは裏腹に掌にじっとりと汗を掻いていた。 恒温動物を立証するための熱い熱い血流が漲って体温を上昇させる。直次は荷台の裏側に隠してあるもう一本を取り出すのにかがみ込んだ。 1メートルほどの竹を柄にして結わえ付けた錐状の鋭い槍である。 直次がそれを手に立ち上がると、刀は地面の霜にあたってきらりとその輝きを誇示した。 子鹿は下りてきた足跡のある山肌をひたすら見上げていた。 直次はその視線を避けて鹿の斜め後方から忍び寄った。 子鹿は既に馴染んでしまった珍客を脅えることなく振り返った。 直次はもう決して子鹿の目を見ることをしなかった。 直次は覚悟とか決意とかの仰々しい思いが体の芯で固まるのを感じた。 同時に人間ではないヒトという名の野生動物に立ち戻っていく自分が居た。 子鹿は鳶色の瞳を悲しげに潤ませた。 直次は横手から鹿の心臓めがけて素早く槍を突き立てた。 一突きだった。 確実に子鹿を絶命に導く。 瞬間と呼んでもいい。 いともあっけなくその生命は力を失う。 子鹿はもう痛みを感じることなく、その瞳は安らぎを得て静かに光りを失った。 「ワシはさばくのが好きや」 直次は自分に聞かす為の独り言のように呟いた。 直次は懐に忍ばせた刀を取り出した。 息絶えて倒れた鹿の首を探って動脈を一太刀するために。 後は淡々とした解体作業が連綿と続くのみだ。 そう鮮血がドクドクと流れ出して。
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